現在のように誰でも分け隔てなく参加して、サクラの木の下でお酒と料理を楽しむ形の花見は、海外の観光客にも素晴らしいものとして見られています。日本の花見はどのようにして始まったのでしょうか。この記事では、花見のルーツを紹介しています。
日本文化に根付いたお花見
毎年、春先になると、テレビの天気予報でサクラの開花予測をするのは、当り前のように行われます。さまざまな暗いニュースが報道される中で、サクラの開花前線予測だけは、ホットします。世間を明るくする話題として丁度良いのでしょう。
日本人にとってはサクラの花の下で、職場の同僚とお酒を飲み、お弁当を食べて皆で騒ぐのは当たり前ですが、外国人の観光客からはとても珍しい風習に映るようです。
現在は、新型コロナが蔓延してお花見も中止になっていますが、自分では、参加しない花見でも復活するのが楽しみです。
もちろん海外旅行者も好意的な光景と捉えて、一緒に楽しみたいと考えているようです。
では、外国人も楽しみたいと思う、日本独自の花見のルーツはどうなっているのでしょうか?
貴族階級の花見のルーツ
花見のルーツを想像すると、奈良・平安時代〜安土桃山時代ごろの貴族階級による歌会を連想する人が多いでしょう。当時の貴族は優雅で風流な文化的な生活を楽しんでいたからです。
ただし、上流階級の貴族たちが歌を作って愛(め)で会う様は、サクラよりも、シックな梅の花やハギの花の方が、人気でした。
元来、花見のルーツは、奈良時代に中国からもたらされた、梅をみる文化が元になったと言われています。
平安時代になると、中国への遣唐使(けんとうし)が廃止されたため、日本では、梅に代わってサクラの花を愛でるようになりました。
貴族階級の花見のルーツは、嵯峨天皇(さがてんのう)が812年に開催した花宴の節(かえんのせち)でしょう。京都の寺院(神泉苑)で開催されたことが歴史書に残されています。
花宴の節(かえんのせち)は、サクラを観賞しながら、雅な音楽と共に、詩を楽しむ季節行事として催されました。
武士による花見のルーツ
武士による花見は、1,598年、豊臣秀吉による「醍醐寺(だいごじ)の花見」が有名です。1,300人もの大名たちを招いて、歌会を交えながらの料理とお酒による華やかな宴会のような花見は、権力を誇示するには絶好の場でした。
醍醐寺は、応仁の乱、文明の乱などで荒れ果てましたが、後ろ盾となって復興をささえてくれた豊臣秀吉のため、醍醐寺の「座主(ざす)」が、「醍醐寺の花見」に力をそそいで実現させた神事でした。(座主は、最上位の住職)
農民のお花見のルーツ
日本人は、古くから農耕民族でした。そのため、神様はどこにも宿るという教えは農民たちにも浸透していました。農作業を始める頃になると、収穫を田んぼの神様に祈願する目的で、神事として神様をもてなすようになります。
弥生時代以降、春になると農民たちは、山に入って、サクラの木の下で飲み食いをして、田んぼの神をもてなしていました。これが、農民文化のお花見のルーツと言われています。
江戸時代に花開いた日本人のお花見のルーツ
- 貴族や、武士(大名)などの特権階級による花見
特権階級による花見のルーツは、権力者による権力の誇示や文化人であることを強調する側面もありますが、神事や祝い事の場でもありました。 - 農民によるお花見
サクラの木の下で、村人総出で楽しむ宴は、豊作や安全祈願をするため、神様をもてなす行事でした。
特権階級と農民の行事として始められた花見が、今日のようなお花見になったのは江戸時代になってからでした。
階級の区別なく、誰でも同じように楽しめる行事になったのは、八代将軍の徳川吉宗のおかげと言われています。
徳川吉宗によって整備された江戸のお花見
徳川吉宗は、享保(きょうほう)の改革の一環として、江戸の文化興隆のために江戸近郊の整備を図ります。この時、飛鳥山や墨田川沿いに奈良の吉野山からサクラを植樹しています。
墨田川沿いに植樹した目的は、治水整備でしたが、素晴らしい景観の中でサクラが花を咲かせると、眩い(まばゆい)ばかりに咲き誇る美しさに、特権階級や庶民の区分けなく、ともに楽しめるお花見文化が芽吹いたのです。
江戸時代の末期には、サクラの品種改良がさかんに行われて、現在では全国で最も多い品種のソミヨシノも誕生しています。
まとめ
特権階級による花見のルーツは、権力の誇示や文化人であることを強調する側面と神事や季節行事としての祝い事でもありました。
農民によるサクラの木の下の宴は、神様をもてなす行事として始まりました。
これらが融合して、現在のお花見の様にだれでも楽しめる文化になったのは、江戸時代からといわれています。
江戸時代は、現代人からみると危なっかしい時代に見えますが、戦争のない平和な時代だったのです。平和な時代こそが、素晴らしい文化を反映させてくれるのでしょう。