ハクチョウは古代人にとっても、特別な存在でした。また、ヤマトタケルも多くの人々から愛されていました。記事では、古事記や日本書紀にハクチョウやヤマトタケルが、どのように記載されていたのかを紹介しています。時を超えた風景が楽しめるでしょう。
日本人にとって特別の存在だったハクチョウ
白くて大きなハクチョウは、秋が深まった頃にやってきて、春に飛び去ることを繰り返します。
カモなどをタンパク源としていた古代人にとっても、ハクチョウは特別な存在でした。
ハクチョウは、死者の魂そのものという考えや、死者の魂を運ぶ存在として古事記や日本書紀に登場することからも推測できます。
次に、ハクチョウが、昔の日本人から、どのように扱われて来たのかを紹介します。
日本神話に登場するハクチョウ
日本神話では、悲劇の英雄として描かれているヤマトタケルの魂として、ハクチョウが登場します。
古事記では
ヤマトタケルは父である景行天皇(けいこうてんのう)の命令で、熊襲(くまそ)や出雲の抵抗勢力を討ちます。
その後に、関東まで東征した後の帰り道の能煩野(のぼの)で倒れて死んでしまいます。
ヤマトタケルは、能煩野(現在の三重県亀山市)で埋葬されて御陵(ごりょう)が作られます。妻や子が悲しみに暮れていると、御陵から一羽のハクチョウが西に向かって飛び立ちました。
それを見た妻たちは、ハクチョウの中にヤマトタケルの魂が宿ったものと解釈して後を追いかけます。そして、ハクチョウが降り立った、河内国(かわちのくに)の志紀(しき)に、新しい御陵を築きます。
但し、妻たちが御陵を築いた後で、ハクチョウは、遥かな上空に飛び去ってしまいました。そんな悲しいストーリーです。
妻たちは、ヤマトタケルの魂に、もう遠くに行かないで欲しいと願って御陵を築いたのでしょう。
でも、渡り鳥のハクチョウは、飛び去ってしまったのです。
日本書紀では
日本書紀には、次のように書かれています。
能煩野(のぼの)から飛び去ると、そのハクチョウは、2個所に降り立ちました。その為、妻たちは、総計3個の御料を築きました。
ヤマトタケルの第二皇子の仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)は、白鳥御陵の堀にハクチョウを放すことまでしています。お堀に、ハクチョウを放したのは、鎮魂(ちんこん)を祈願するためです。
ハクチョウと天皇家のエピソード
垂仁天皇(すいにんてんのう)の子息の、ホムチワケは、30歳になっても言葉を話せませんでした。
ところが、ハクチョウと接するうちに言葉を話せるようになったという逸話が残されています。
まとめ
白くて大きなハクチョウには、古代の時代から人々の心を揺さぶるものがあったのでしょう。古事記・日本書紀の記録や、天皇家とのエピソードなどは、そのことを端的に表しています。
毎年、飛来してくれるハクチョウの存在は、この世とあの世の使者のように感じたのかもしれません。当時の人は、池のほとりを優雅に泳ぐ姿や、大空を雄大に滑空するハクチョウの姿に、ある種の憧れを抱いたのでしょう。
ハクチョウとともに、ヤマトタケルは、多くの人からしたわれていました。
古事記や日本書紀の記録からは、白くて大きなハクチョウに畏怖(いふ)の念で接していたことが伺えます。