サクラは、日本を代表する花と言われていますが、いつ頃から認識されるようになったのでしょう。記事では古い歌集の内容や、歌集内に登場するサクラの花の出現回数を紹介しています。きっと、忙しくてやり切れない日常を忘れられるひと時になるでしょう。
サクラは日本の代表的な花なの?
サクラの花は、100円硬貨に刻まれ、古い絵にも描かれています。歌にもサクラを含んだ歌詞は数多く存在します。さらに、サクラの開花日予報の桜前線も、報道されるほど全国的に盛り上がります。
恐らく、サクラは日本人の心を象徴する花なのでしょう。しかし、人によっては、キクの花や梅の花も日本を代表する花だと主張するかもしれません。
古い歌集に登場する花の数で、いつの時代からサクラが日本の代表的な花になったのか確認してみましょう。
歌集に登場する花
日本の古い歌集として、万葉集・小倉百人一首・古今和歌集に登場する花名を調べてみました。最初に各歌集の概略を紹介してから、主に登場する花の数をまとめています。
万葉集
万葉集は、日本で最も古い歌集と言われています。年代は7世紀後半から8世紀の後半に編纂(へんさん)されたもので、歌人の身分などとは関係なく、約4,500首の歌が集められています。
万葉集に詠(よ)まれた土地は、東北から九州の日本各地が登場して、約1,500首の歌に160種類ほどの植物が詠まれています。歌に詠まれた植物で多いのは、ハギ・ウメ・マツ・タチバナ・ヨシ・スゲ・ススキ・サクラ・ヤナギなどで、いかにも万葉集らしい植物が並んでいます。
万葉集に編纂された歌に詠まれる花で最も人気が高いのは、ハギ(141首)や、ウメ(118首)でした。万葉集の中のサクラ(40首)は、他の花に大きく引き離されていました。
このデータから、万葉集を編纂した7世紀後半(飛鳥時代後半)から8世紀の後半(奈良時代後半)の頃は、サクラよりも、ハギやウメの花の方が注目されていたのでしょう。
小倉百人一首
百人一首は、100人の歌人から、一人一首ずつを厳選した和歌集として編纂(へんさん)されたものです。小倉百人一首は、公家の藤原定家が小倉山の山荘で編纂したもので、歌カルタとして有名です。
藤原定家の活動時期は平安時代末期から鎌倉時代初期です。小倉百人一首は、13世紀の前半ごろに成立したと言われています。
小倉百人一首の100首は、古今和歌集や新古今集などの勅撰和歌集(ちょくせんわかしゅう)の中の短歌から選ばれたものです。
勅撰和歌集とは
勅撰和歌集というのは、天皇の命令で編纂された和歌集のことです。古今和歌集から新続古今和歌集までの21歌集が該当しています。
小倉百人一首には、サクラ(6首)、キク(1首)、ウメ(1首)などの花が詠まれていました。
古今和歌集
古今和歌集は、平安時代前期の最初の勅撰和歌集とされています。古今和歌集では、サクラ61首に対して、ウメは28首でした。
日本の時代区分と歌集の編纂時期
万葉集や古今和歌集が該当する、大雑把な日本の時代区分を次に紹介します。
- 奈良時代(710年〜794年:8世紀ごろ)
- 平安時代(794年〜1185年:8世紀末から12世紀末ごろ)
- 鎌倉時代(1185年〜1333年: 12世紀末から14世紀前半ごろ)
- 万葉集の編纂(ほぼ奈良時代)
- 古今和歌集の編纂(平安時代前期)
- 小倉百人一首の編纂(平安時代末期から鎌倉時代初期)
万葉集では、サクラよりもウメの花の方が注目されていましたが、平安時代前期に編纂された古今和歌集では、サクラがウメを逆転していました。その後に編纂された小倉百人一首でもサクラの優位は変わりません。
このことから、サクラが日本を代表する花として認識されるようになったのは、平安時代の初めごろと考えて良いでしょう。
まとめ
万葉集、小倉百人一首、古今和歌集に登場するサクラを詠んだ歌の数を比較してみました。サクラが詠まれた歌の数で比較して、日本を代表する花と認識される時期を推測してみたのです。
このことから、サクラが日本の花と言われるようになった時期は、平安時代の初め頃と考えられます。