数10年前に、1000年以上も前の蓮(はす)の種子が見つかりました。以来、古代蓮として有名になってピンク色の鮮やかな花を咲かせてくれます(6月〜7月)。ところが、古代蓮と呼ばれている蓮は、1つだけではありません。日本には、2種類あります。
古代蓮とは?
古代蓮は、蓮の種類ではありません。日本の蓮の研究者(大賀一郎氏)が、中国大連市近郊で、1000年以上前の蓮の実を発掘して、開花に成功した際に命名しました。これが、古代蓮と呼ばれた最初です。
日本には、古代蓮と呼ばれる、大賀蓮と、行田古代蓮の2つの蓮があります。これらの発見経緯などを見ると、発掘された蓮の実からの正確な年代測定は無理のようです。
そのため、蓮の年代は、発掘された蓮の実の周辺にある地層や木などの放射線炭素年代測定結果から推定しています。
次に、大賀蓮と行田古代蓮の発見経緯などを紹介します。
大賀蓮の発見経緯など
大賀蓮は、第二次大戦中の燃料不足対応で発見されました。発見経緯は、東京大学検見川厚生農場(千葉県千葉市花見川区)の一部を借りて、燃料になる草炭を採掘したことです。
採掘は戦後も継続して行われていましたが、1947年7月に、丸木船と櫂(かい)が掘り出されたことに端を発しています。丸木船と櫂が発見による、規模の拡大(大学研究者や日本考古学研究所による共同調査)が実施されたためです。
この時、2隻の丸木舟と、蓮の果托(かたく)が見つかって、落合遺跡(縄文時代の船だまりと推測)と呼ばれるようになりました。
ここで、蓮の花托(かたく)とは、花びらの、付け根にある楕円形の部分です。蓮の花托の上部には、黄色の雄蕊(おしべ)があります。
植物学者の大賀一郎氏は、蓮の権威者でした。そのため、遺跡跡の蓮の花托に興味を持っていました。
このような事情から、1951年3月から一般市民・ボランティアなどの協力を得て、蓮の発掘調査が行われています。
この時の協力者(女子生徒)が、地下6mの泥炭層から蓮の実を発見して、計3粒の蓮の実が発掘されています。
3粒の蓮の実は、大賀氏の自宅(都下府中市)で育成され、翌年の1952年には、内1粒がピンクの大きな花を咲かせました。このニュースは、驚きをもって世界中に報道されています。
蓮は、実が発掘された付近の丸木舟の木の破片による放射線炭素年代測定で、およそ2000年前(弥生時代)と推定されています。
この古代蓮のことを、大賀蓮と呼んでいます。
大賀蓮は、千葉県指定の天然記念物ですが、現在では全国の愛好家や市民の憩いの場などで栽培されて広く愛されています。
行田古代蓮の発見経緯など
行田蓮は、偶然が幸いして古代の蓮が目覚めたものと考えられています。
埼玉県行田市では、1971年(昭和46年)に新しく焼却場施設を作る為、造成工事が始められました。
その際、穴を掘った場所に水が溜まって池のようになってしまいました。
造成工事が行われた地域は、2000年前には、湿地帯で多くの水生植物が生育していた場所です。
当然、その地域には、当時の蓮もあったと思われます。
1973年(昭和48年)頃になると、工事で掘削された場所にできた池の水面に大きくて丸い葉が浮くようになりました。そして、その年の7月には、ピンクの蓮の花が咲きました。(この年には52本の花が咲いています)
さらに翌年には、蓮の研究家と市の教育委員会の協力で蓮の実の採集を行っています。この時の年代測定調査は、うまく測定できませんでした。
調査は続けられて、その翌年の1975年(昭和50年)には、同研究者達が再チャレンジしています。
この時の日本アイソトープ協会の測定で、およそ1400年前の蓮の実だと確認されました。
尚、考古学的見地(種子が存在した地層の年代など)からは、2500年〜3000年前のものとされました。但し、研究者達によって総合的に判断され、行田蓮は1400年〜3000年前のものと推測されています。
行田古代蓮の里は、行田市の天然記念物である行田蓮をシンボルとした公園です。行田古代蓮の里では、世界中の様々な蓮(41種類、2万株程)が植えられています。
まとめ
日本では、大賀蓮と行田古代蓮が古代蓮と呼ばれています。
古代蓮は、直接的な年代測定はできませんが、発見経緯などから、1000年以上前の蓮の実と考えられています。
蓮の花の輝きは、古いものも、新しい物も、観る人を魅了してくれますが、古代蓮という響きもロマンを感じさせてくれます。1000年前の人が、同じ花を観て感激していたと思うだけで、気持ちも高ぶります。